国宝 薬師堂

 本堂の中に、薬師三尊像を安置していますので「薬師堂」とも呼ばれます。この薬師堂には、弘安9年3月16日(AD1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建てられ、築730年以上にもなります。勿論山梨県では一番古い建物です。

 大きさは24m四方で、5間の正面は、中側の3間は両開きの扉が付き、両外側は、上部が縦桟の連子格子になっています。両側面の正面寄りと、裏面中央には、出入り口があります。また幅広の縁側が四周を取り巻いています。上を見ると流麗な線を 持つ檜皮葺きの屋根は、落ち着きを見せ、鎌倉時代の建築の力強さをよく現しています。

 内部は内陣下陣に分かれ、内陣には須弥壇を設けて厨子(国宝)を置き、薬師如来をお祀りしています。その両側には日光菩薩、月光菩薩、更に十二神将を配しています。

 昭和29年12月に解体復元修補が行われています。

 国宝 大善寺 本堂 一棟、付属 厨子 一基
 昭和30年6月22日指定

薬師堂

薬師堂

薬師堂

薬師三尊像

 当山のご本尊である薬師如来は病苦を除く仏として早くから信仰されてきました。本像を中心に日光菩薩像、月光菩薩像を配し、三像ともにサクラ材の一木造です。

 薬師如来像は、大きめの頭部に対して両脚部は幅を狭く表し、太い両腕を体部に引き付けた力のこもったお姿をしています。お顔はやや面長な輪郭に大ぶりな目鼻立ちで、表情は穏やかな中にも厳しさがあります。

 また、右手は昭和5年に修理し、平成に入り、往古の伝承に基づき左手の葡萄を復元しています。

日光菩薩像、月光菩薩像は、体躯に均整がとれ、引き締まった身体は薄い衣を通して充実した量感で、お顔は丸顔で頬がふっくらとし、大きく弧を描く眉と切れ長の目に対して口は小さめです。両像は非常によく似ていますが、日光像はふくよかで優しいお顔に対して、月光像は厳しく、衣の襞も日光像は丸みを帯びて柔らかにみえますが、月光像はやや表現が固く感じられます。

 薬師三尊像は秘仏として厨子の中に納められ、通常は拝むことは出来ません。しかし、五年に一度扉が開かれお姿を拝むことが出来ます。

 像高:薬師如来像 86.7cm 日光菩薩像 102.6cm 月光菩薩像 101.8cm

薬師三尊像

薬師如来


薬師三尊像

日光菩薩


薬師三尊像

月光菩薩

十二神将立像

 十二神将は十二夜叉大将ともいい、それぞれ7千の夜叉を率いて薬師を敬うものを護るとされる薬師如来の眷属(けんぞく:侍者、従者、随伴者、取り巻きの者のこと)です。

 皮革の甲冑に身を固めた武将姿で、守護神らしい形相をしています。

 鎌倉時代に造られ、像高145.9~138.2cm、ヒノキ材の一木造及び寄木造で、玉眼がはめ込まれています。

 各像はがっしりとした体躯に甲冑を着け、さまざまに武器を執っています。大きく口を開くもの、固く口を引き結ぶもの、目を思い切り見開くものなどそれぞれに個性的です。

一方で、この時期の十二神将像によくみられるような大げさな動きをみせず、伝統的で節度のある造形をみせています。

鎌倉彫刻らしい写実的な表現の中にも格調の高さを感じさせます。

十二神将立像

十二神将立像

十二神将立像

十二神将立像

日光菩薩月光菩薩立像

 この像は、厨子両脇の須弥壇上の国の重要文化財「十二神将立像」と同じく、鎌倉時代、仏師蓮慶により製作されたとされています。

 日光、月光菩薩像は、薬師如来像の脇侍として造立されることが多く、本像は、仏坐像の脇侍像としてふさわしい大きさであることから、本来は当寺文書に文永7年(1270)、堂とともに炎上したと記される「新仏丈六」の脇侍像であったと考えられています。

 この日光、月光菩薩像を脇侍とする丈六薬師三尊像とこれに随侍する十二神将像は、鎌倉時代の甲斐を代表する仏像であったことでしょう。

 ヒノキ材の寄木造で、両目には鎌倉時代以降通例となった水晶製の玉眼がはめ込まれています。

頭部は丁寧に髪筋を刻んで華やかな高髻(こうけい:奈良時代の女性貴族の髪型)を結い、卵形のお顔には端正な目鼻立ちを刻み、表情は引き締まっています。

 下半身に着ける裙は、日光、月光像でヒダの形をかえて変化をみせ、やや厚い衣をゆったりとまとう様は、風格を添えています。

 像高:日光菩薩像 248.0cm 月光菩薩像 247.0cm

日光菩薩立像

日光菩薩


月光菩薩立像

月光菩薩

財宝指定名称時代年号
国宝薬師堂鎌倉時代弘安9年(1286年)
国宝厨子南北朝時代文和4年(1355年)
国の重要文化財※薬師三尊平安初期
国の重要文化財十二神将鎌倉時代嘉禄3年(1227年)
国の重要文化財日光月光菩薩鎌倉時代嘉禄3年(1227年)
※H19.3.16指定
県指定文化財庭園江戸時代寛永年間
県指定文化財※太刀室町時代寛永19年奉納銘
県指定文化財鰐口室町時代徳治2年(1307年)
県指定文化財板笈室町時代
県指定文化財役行者鎌倉時代
県指定文化財※古文書73点平安~
安土桃山時代

(注)これらのものの一部(※印)の参詣ないし見学は、ご本尊御開帳に併せて展示され、通常は御覧になれません。

武田勝頼と大善寺

 天下統一を競った武田信玄亡き後の勝頼は、織田、 徳川の連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年(AD1582)三月三日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝を祈願して、一夜を明かしました。

 しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに三月十一日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡しました。

 その一部始終を目撃した理慶尼が記した理慶尼記は、また武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に今なお大切に保管されています。

 勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは、後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が今でも大切に安置されています。

武田勝頼と大善寺

理慶尼


武田勝頼と大善寺

理慶尼記(武田滅亡記)


武田勝頼と大善寺

文殊菩薩立像


武田勝頼と大善寺

毘沙門天立像

近藤勇 柏尾坂の戦い

 旧幕府軍と新撰組は、1868年(慶応4年)薩摩藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見の戦いで敗れ、大坂から江戸へ帰還しました。その後、近藤勇を隊長とする「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として新政府軍の東進を阻止する目的で、甲府城の接収を命ぜられ、甲州街道を西へ進みます。

 しかし、板垣退助率いる新政府軍3000の一隊はわずか一日の差で甲府城に入城しました。近藤は援軍要請のため土方歳三を江戸へ向かわせる一方、自身は西進し3月5日勝沼に布陣。大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め、大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側の白山平にいたるまで細長く配置されたとされています。当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか121名だったといわれています。

戦闘は3月6日正午頃から始まりましたが、わずか2時間程で甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走することになりました。

甲州勝沼柏尾坂の戦い

甲州勝沼柏尾坂の戦い
(中央に近藤勇、右側奥に大善寺の山門が描かれています)